人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か

スティーブン・ピンカー著。この本の内容や価値については的確な書評を山形浩生さんが書かれているので、そちらを参照していただくのがよいかと思います。

 人は最初は白紙状態で、環境や努力ですべてが決まるという思想は、ここ数世紀の不合理な差別撤廃や教育整備などに大きな役割を果たしてきた。でもこの思想には大きな問題がある。まちがってるんだもの。人間の相当部分は遺伝的に決まる――それがこの本の主張だ。

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

私の感想は、実体があるところから始まる話は説得力があるなあ・・・ということ。即物的な理系の学問に対して、文系の学問(哲学とか社会学とか一部の経済学とか心理学とかも含む)は、実体として存在しているモノに還元しにくい概念を扱うことが多いので「論のための論」に陥りやすいように思います。


つまり現代の物理学でAさんが語る水素原子とBさんが語る水素原子が別のものを指しているなんて事はありえないのですが、文系の学問で「自我」とかいった場合にはほとんど発言者の数と同じだけの「自我」が存在するわけです。ところがそのぶれ易い「自我」という言葉を使って多くの人が様々なことを(しかも深刻で重要なことを!)論じるのですからややこしいことになります。


しかし、もしも現在文系の学問で論じている概念を実体のあるもの還元できるとしたらどうでしょうか?「自我」を担当している神経細胞が特定され、脳の中で行われる処理が解析されて、自我を担当しているプログラムはこれです・・・と明確にわかったとしたどうでしょうか?そんなことを考えさせられました。実際、脳や遺伝子についての研究は進展してゆくでしょうから案外そんな日が来るのも近いのかもしれません。
そうなったら文系の学問は確実に進歩したと言えるのでしょう。ま、かなりミもフタも無いものになるのでしょうけどね。芸としての味わいが少なくなるというか・・・。