終戦と開戦のリアリティ
終戦記念日だけれど開戦の話です。以前にちょっと触れた「戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々」(id:SIM:20050316)を読んで印象に残った部分を思い出したので引用します。
戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー)
- 作者: 多川精一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2000/07/01
- メディア: 単行本
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戦後の平和な日本しか知らない人には信じられないかもしれないが、当時戦争は日常でありながら、それは遠い大陸の地で行われていたので、戦火の実感はまったくなかった。そういう毎日がすでに十年以上続いていたのである。だから戦場が太平洋全域から東南アジアまにでひろがっても、国内では現在の戦争ドラマなどに出てくるような状況になったわけではなかった。すくなくとも開戦後一年間はそれまでの延長のような日常だったのである。
これは昭和17年(1942年)の正月を回想した部分です。著者はデザイナーとして日本のプロパガンダ誌の制作に携わった方で当時二十歳前、物心ついた時から戦争は行われていたわけですね。仕事柄、軍隊にも戦場にも行くことなく終戦を迎えたそうです。
我々が(戦争を知らない世代が)戦争体験者から話を聞く場合、悲惨な体験について聞くことが多いですよね。今年は戦後60周年と言うことで様々なメディアでもそうした体験が語られているかもしれません。それらの体験を聞くことには勿論大きな意味があるわけですが、そうした劇的な体験ではないが故に、私はこの体験談にはっとさせられました。劇的な体験談にはない時代の雰囲気を伝えているように思えたからです。
どんな劇的なことでも実世界で起こることならば何らかの形で日常と地続きなのだと、当たり前のことを思い起こしました。湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争と続く現代のアメリカ人はこんな感じなのかな・・・と連想・・・そして、ふと遠い任地にいる自衛隊のことを考えました。